Ernie Gutierrez(Ginacue)
アーニーの趣味はバイクです。
彼の工房にはバイクのコレクションがあり、
仕事を終えるとバイクの改造をしたりします。
カウルのジナキューのロゴにご注目。
アーニー・ギュテレスがキュー作りを始めたのは、ジョージ・バラブシュカがキュー作りを始めた僅か
2年後であり、その8年後にはガス・ザンボッティがキュー作りを始めた。ジナキューは映画にも登場している。「アメリカン・プレジデント(原題)」に主演するマイケル・ダグラスから大統領にふさわしいキューだと選ばれたのだ。
アーニーの父は木工職人で趣味で楽器作りをしていた。木工芸術への関心と知識を持ち、ビリヤードを楽しんでいたティーンエイジャーは、やがてキューの修理を始める。
この時期の著名なキュー職人はロサンゼルスのハーベイ・マーティンや、シカゴのハーマン・ランボウ、ニュージャージーのフランク・パラダイスぐらいであった。
1962年の初め、アーニーが最初のキューを製作した日は、娘ジナが誕生して僅か6日後だったことから、彼は工房を”ジナキュー”と名づけた。この頃キュー業界は映画「ハスラー」の影響もあって復活し、アーニーにとって難しい商売ではなかった。1962年の終わりにリッチー・フローレンスがジナキューを携えてローカルトーナメントで優勝してからは、注文が殺到した。この頃のジナキューは65ドルで売られていた。しかし偉大なキューメーカーとしてその名を認められたいと考えていた彼は、単純なデザインの従来のキューにかわって、めずらしい素材と芸術的なデザインのキューを作れば売れるのではと感じていた。
1966年、現在でも見劣りしないキューを作ったとき、そのキューを手にイリノイ州ジョンソンシティのトーナメント会場に赴き、キューを披露し人々を驚かせた。200枚用意した彼の名刺は1時間で無くなったという。60年代の終わりには、貴金属、宝石までも多様に使用したキューを作り、数千ドルという当時でも高価な値段で取引されていた。顧客リストにはディーン・マーティン、フランク・シナトラ、サミー・デイビスJr.、スティーブ・マックイーン、ピーター・フォークなど他にも多くの著名人が名を連ねていた。
70年代になると、スタイルとプレイアビリティが評判になり、多くのプレイヤーがジナキューを使うようになっていた。カスタムキューメーカーとして彼は尊敬と賞賛を成し遂げた。他の分野への興味と関心から、1973年にアーニーはキュービジネスを離れ、レースカーと航空機のデザイン・設計に没頭した。インディ500で走る彼の"Lola"の燃料噴射システムも手がけた。さらに産業器材を設計して、専門機械加工と溶接に関与した。いつかはまたキュービジネスに戻ろうと考えていた彼は、1988年にカムバックした。設計と製造での15年の経験を生かし、キュー製作の大部分の機械を自分でカスタマイズした。今でも多くのキューメーカーが見学に訪れる彼の工房は北ハリウッドにあり、現在もキュー職人として活躍している。
-"Blue Book of Pool Cues"より抜粋引用-
Jerry McWorter
ジェリー・マクウォーターが初めてキューを作ったのは、高校の木工の授業でだった。その後、彼は3ヶ月ほどキュメーカーのもとで働いたこともあったが、何年かは父親の土木業を手伝っていた。しかし80年代後半の南カリフォルニアでは不動産業界は不況で、商売は次第に上手くいかなくなり、ジェリーは、カスタムキューの市場へ目を向けるようになった。
1989年に、彼が最初のマクウォーター・キューを作ったときは、多くの部分でサウスウエストのスタイルを真似ていて、オリジナリティに欠けていたが、1990年にどのキューにも交換可能なシャフトを作った。1996年の初めにはバンパーを改善した。そして1999年2月、彼はギャラリー・オブ・アメリカン・キューアートで銅メダルを獲得した。
-"Blue Book of Pool Cues"より抜粋引用-
ジェリー・マクウォーターは、1989年にキュー職人としてのキャリアをスタートさせた。それはプレイヤー志向重視のシンプルなキューの需要を満たすことを目標としていた。彼自身プロレベルのプレイヤーであり、プレイヤーがキューに何を求めているかを理解している。
10年以上が経過した今でもプレイヤー志向のキュー製作概念に変わりはないが、以前のシンプルなデザインから一転し、今日では複雑で革新的なデザインが代表的なものとなっている。
趣味は音楽(ドラム)、手品。
以前マジシャンをしていたこともあります。
夫人は元女子プロの
ジェーン(ジャン)・マクウォー ター。
Richard Chudy
チュディ氏のジョイントに関しては、
Billiard Digest(2005年4月号)でも
採りあげられています。
cueagentではチュディ氏を応援しています。
彼に質問してみたいことがあれば、
cueagentにメールにてお問い合わせください。
ミシガン州デトロイトで美術専攻の大学生だったチュディは、ビリヤード用品店で、ビリヤードテーブルの修理を担当していた。キューの修理を多く手掛けていたその用品店は、1972年にキューの製作も始め、チュディはいつの間にかその仕事の中心的な存在になっていたようだ。また仕事の合間に絵を描き、ローカルなギャラリーで展示したりもしていた。
1977年になり、親戚が手掛ける商売が北カリフォルニアにあり、その会社から請われて就職した。以前からその地域に住みたいと考えていたチュディ夫妻はすぐに引っ越した。カリフォルニアに移ってからも絵や彫刻は続けていたが、80年代になり、再びビリヤードテーブルやキューの修理を始めた。1988年に最初のキューを作った彼は、キューの製作を通じて自分の芸術的感性を表現できるかもと考えるようになり、いつしかキュー職人への道を模索するようになった。
そんな折、1996年に親戚のビジネスが売りに出され、キュー職人になる決意をした、という。
-"Blue Book of Pool Cues"より抜粋引用-
RC3 cueの特色
ジョイントピンとデザインに特色があります。
エポキシ樹脂にガラス不織布を織り込んで積層プレスしてつくられた
材料(G-10ガラスエポキシ)を使用しています。
あのコグノセンティと同様です。スチールピンより硬く、軽いので
キューの反応が良くなると言っています。
ピンの形状はサウスウエストと同じです。
G-10に加え、2005年からはカーボンファイバーピンの使用も開始
しました。スチールより強く、柔軟性があり、軽量化が出来ます。
もともとは黒の素材を探したところ、カーボンに行き着いたとのことです。
Jerry Franklin(SouthWest)
故ジェリー・フランクリンは大学で会計学を専攻し、趣味で車のメカニックもこなしていた(10歳の頃にスクラップの自転車からゴーカートを作った逸話もある)。1976年にキューメーカーのデイビッド・カーセンブロックの車を修理した際、報酬をお金ではなくキューで受け取った。そのことがきっかけでキューの製作に興味をそそられ、カーセンブロックの手伝いを始め、キュー製作の機械もいじるようになった。
その後カーセンブロックが一時アリゾナに移転し、ジェリーはラスベガスに残って2年間冷凍ビジネスで働いていたが、1982年にキューメーカーとしてSouthWestを立ち上げた。始めた当時カーセンブロックもSouthWestを訪れ、カッティングやインレイのアートワークを指導していた。そのため初期のSouthWestはたびたびカーセンブロックと間違われたこともあったが、バット部分の接合技術やジョイントの部分の設計の仕方が違うので、現在は間違われることはない。
オーダーから納品まで、何故こんなに時間がかかるのか?
それにはいくつかの理由がある。
ひとつはSouthWestを作る工程に必要とされる時間である。例えばシャフトはいきなり木を切らない。1インチの太さから12回に分けて少しずつ削っていく。そして一回に削る量は1インチの1/16でしかない。その間2週間はあけるので、一本のシャフトを作るのに24週間すなわち半年を要するのである。 最後のコーティングも特殊であり、ステップがあるので時間を要する。年間生産量は250本だが、それをうわまわる需要があり、このような状態になっている。対策として、一つのディーラーから年間3本以上の注文は受けないことにしている。 こうしたことから、マーケットではプレミアムプライスで取引されている。
ジェリーは、死後の2005年3月にアメリカ・キューメーカー協会の殿堂入りをした。
-"Blue Book of Pool Cues"より抜粋引用-
1996年にSouthWestのジェリー・フランクリンは42歳の若さで亡くなってしまいました。
現在は、その当時からのスタッフと夫人の
ローリーが指揮を取りキューの製作を続けています。
シンプル・エレガンスなデザインも不変です。
Tim Padgett
パジェットはTim(ティム)と呼ばれている。彼は陽気なアメリカンというイメージはなく、どちらかというと固い職人気質の人間である。 生産量も年間50本と少なく、なかなか手に入らないキューとされている。
彼はもともとはバート・シュレーガーのもとで働いており、そのためキュー作成のプロセスはシュレーガーと同じで、またジョイント部など明らかにシュレーガーをリスペクとした部分もある。しかし、差別化された彼独自のデザインと、精度、緻密さがシュレーガーとの違いを表している。
パジェットは曲がらない、狂いがないキューということでも定評があり、サウスウエストと似た打球感といわれることが多いが、故ジェリー・フランクリンと、キュー作りの哲学から 技術論までよく語り合っていたようで、それを聞いたときは非常に納得した。